ATRI -My Dear Moments- をクリアしたという記録3(アニメ版について)

原作公式サイト
アニメ版公式サイト

記録1
記録2(ネタバレあり)
記録3(アニメ版について)(ここ)

その2に引き続き、ネタバレ注意。
原作およびアニメ版のネタバレを含みます。

もくじ





























































アニメ版がきっかけで原作をプレイ

この作品との出逢いはアニメ版がきっかけでした。

最初はアニメ版しか知らない状態で、原作のこととかは全く考えずに最後まで普通に楽しみながら見ていて心打たれて涙してとても良い作品だったなと思ったのですが、いくつか気になる部分がありました。
 良い作品だと思ったからこそ気になった部分が余計に気になってしまい、原作をプレイすれば詳細が分かるだろうと思って原作に手を出しました。

先に結論を言ってしまうと、気になった部分はアニメ版のオリジナルな部分だったので残念ながらその詳細は分からないままです。アニメから読み解くしかありません。

この記事は原作もアニメも両方とも最後まで読んだ・見た状態で書いています。
 ただし、好きな時に好きな場所をいつでも読み返せる原作とは違って、アニメ版に対する言及は最初に見たときの記憶に頼って書いているため、理解不足や事実誤認が含まれている可能性を否定できません。
 もし事実を誤認している部分がありましたらご容赦なくご指摘くださると助かります。

表現媒体の違いによる改変について

明言しておきますが、アニメ版には原作とは設定が異なるオリジナルな部分があること自体は特に問題視するつもりはありません。
 もちろん、わざわざ書く必要もないくらいに当然の前提として「著作権者が許容する範囲において」ではありますが。

表現媒体の違いに合わせた調整というのはあってしかるべきだと思いますし、媒体の違いによる制限事項もまた変わってくるはずです。
 商用の作品である以上は、想定する読者・視聴者の層に合わせた調整もまたなされて当然でしょう。

ただ、お話の根幹にかかわるような重要な設定が変わっている場合、原作と別設定である以上は、作中で描いていない部分が原作の設定と同じである保証なんてないハズで、そこだけ都合よく原作と同じだと言われたとしてもそう簡単に納得できるものではありません。

アニメ版がオリジナルな設定を使用しているという条件においては、それはあくまでアニメ版だけの設定であり、原作を補完する情報として扱うのは危険であると私は考えています。
 同時に、その条件において、アニメが描いていない部分を原作の設定で補完することも危険であると考えています。

原作からの改変に対する私の中での一般論

この作品がそうだと断言する意図はなくて、あくまで原作のある創作物に対する私の想いとして。

原作にはないオリジナルな設定で物語を描くと決めたのならば、制約などの都合があったとしても、描き切れていない部分を原作の設定に頼ることなく独立したひとつの作品として描き切って欲しいと思っています。

芸や武道などにおいて、最初は師からの教えを守り、ある程度の実力を付けてからは師の教えのみにとらわれずに他の師からの教えも取り入れて型を破り更なる実力をつけ、ついには師の元を離れて自身の力のみで道を進めるようになる、という3つの段階を意味する守破離という言葉があります。
 これと関連して、実力なき者がただ型を破ろうとしてもそれは型無しになってしまう、といった意味の言葉もあります。

ここでの師弟の関係を原作とそれを元にした創作物とにあてはめて考えたとき、守ではなく破をすると決めたのならば、しっかりと離まで至って欲しいと思います。
 原作から設定を変えたことが原作改変であると批判されるような場合、視聴者にとってそれが型無しであると映ったために発生した批判なのかもしれません。

アニメ版のオリジナル部分で良かったと思っている点

アニメ版が原作とは異なるオリジナルなものであることを理由にした批判の声が少なくないように見受けられます。

両者を知った上で比べてみると、シナリオの質や描写の深さなど物語を深く楽しむ上では原作の方が確かに良質であると私も思います。
 ただ、原作と違うことを無念に思う気持ちは分かるのですが、批判の全てはに同意できない、けれど完全に否定するつもりもない、くらいの感覚でいます。

また、毎週更新のアニメという媒体においては、仮に原作の通りにやったとしても媒体の性質の違いにより、原作の通りであることがマイナスに働く可能性があるかもしれないとも思っています。
 アニメ版のオリジナルな部分にも評価すべき部分がちゃんとあると私は思っているので、アニメ版のオリジナルな部分で私が良かったと思った点について挙げておきます。

シナリオ・設定

原作はノベルゲーという媒体なのでプレイヤーの好きなペースで読み進めることができるし前に戻って読み直すことも手軽にできるのに対して、アニメという媒体は視聴者の情報処理速度とは無関係に時間の経過に伴い自動的にお話が進んでいきます。
 原作が持つシナリオや設定のある種の複雑さは、そのままアニメという媒体に持ち込んでしまうと視聴者の理解速度が間に合わない懸念があると思っています。
 そのため、シナリオや設定が原作よりもシンプルになるのは必然的な変化だったのかなと思います。

原作から設定が変わっているからこそ見ることができた描写というのもあると思っています。

キャラクターのしぐさなどの動画表現が良いとかそういったことは自明であり、また、アニメ版のみのオリジナルなシナリオ・設定とは関係のない部分なので、ここでは言及を省きます。

アニメ版のここが良かった

  • 中盤~終盤では、原作は4つの関心ごと(心の有無、残り時間、エデン、ヤスダの復讐)が並行していたシナリオだったのに対して、アニメ版では2+2に分割して整理されていて、表現媒体の性質の違いに合わせてうまいこと調整した部分だと思っています。
     視聴者が話の構成を把握できないまま話が進んでしまうのを避ける意図が実際にあったのかどうかは私には分かりませんが、話の構成を整理したことでその効果が表れていると思います。
  • アトリと詩菜との楽しかった日々が具体的なエピソードを伴って描写されていて、アトリが詩菜に対して大好きという感情を抱いた説得力が増します。
     また、「高性能ですから」が詩菜由来であることが明確に描写されています。もしかすると、アニメ版の設定ではアトリのあの性格自体が詩菜由来なのかもしれませんね。
     原作ではシナリオの重要な部分に影響する設定が関係しているために、2人ともがあそこまで楽しそうな描写はできなかったハズなので、別設定だからこそ見ることができた光景だと思います。
  • 管理人になることが生き地獄であることを明確に言及しているのも、原作よりも分かりやすくなっている部分だと思います。
  • 夏生とリュウちゃんとの決闘騒動では、そう思わせるだけの緊迫感がありました。
  • キャサリンがハナちゃん先生である証拠がはっきりと明示されていて、夏生たちがキャサリンを先生に勧誘することの視聴者に対する説得力があります。

OP・ED曲

アニメ版のOP・ED曲が原作のOP・ED曲と違うことに対して残念がる声が少なくないように見受けられますが、個人的には違う曲で良かったと思っています。

ノベルゲーのOP・EDに対する私の考え

この作品の原作の場合は十数時間くらいのボリュームな訳ですが、ノベルゲーのOP・ED曲というのは時に数十時間もの色々な出来事をプレイヤーに思い起こさせる重要な曲だと私は思っています。
 そして、そのような重たい想いと関連付いた曲というのは、ここぞという重要な場面で流れるからこそより効果的だと思うのです。

原作のOP・ED曲が良い曲であり、さらにシナリオと強く結びついているために思い入れも強くなるというのはその通りだと思っています。
 しかし、だからこそ、アニメのOP・ED曲に求められる役割とはミスマッチが発生してしまうのです。

アニメのOP・EDに対する私の考え

アニメのOP・ED曲は毎回の放送の冒頭と末尾で流れる曲であり、今回のお話はどんな内容だろうかというワクワク感を感じさせてくれたり、今回も面白かった・次回も楽しみだという想いとともに作品世界から現実世界に戻っていくクールダウンになってくれたりと、ノベルゲーのOP・ED曲とは求められる役割が違うハズなのです。

アニメのOP・EDの頻度でノベルゲーのOP・ED曲が流れても、ノベルゲーで体験するような重たい想いはそこにはなく、重要な場面で流れる曲というありがたみも薄れてしまいます。
 同じ曲を聴いたとしても、ノベルゲーをプレイしてのみ聴いたヒトと、アニメのOP・EDでのみ聴いたヒトとで、おそらくは曲に対する評価は変わってくると思います。

この作品のアニメ版のOP・EDについて

原作のOP・ED曲の特別感を薄れさせないためにも、アニメ版のOP・EDが別の曲で良かったと思うのです。
 媒体の違いによってOP・ED曲が持つ役割が違うからこそアニメ版のためのOP・ED曲が作られ、原作のOP・EDが特別な曲であると分かっていたからこそ原作の2曲がアニメ版の特別なEDとして使用されたのではないでしょうか?

また、だからと言って現状のアニメ版のOP・ED曲が価値の低いどうでもよい曲だなんて言うつもりは全くなくて、アニメのOP・ED曲としての役割をしっかり果たすことができている良い曲だと私は感じています。
 青く透き通った雰囲気を感じるOP曲はこれから作品世界に入り込もうという気持ちを高めてくれますし、にぎやかで楽し気のあるED曲は日常のほのぼのとしたシーンからでも緊迫したシーンからでも悲しみに満ちたシーンからでも、どんなシーンからでも程よい感じにクールダウンさせてくれます。

これはあくまでアニメのOP・EDに求められると私が考えている役割をしっかり果たすことができているという意味で良い曲、という評価であって、曲に対する好悪についてはここでは一切言及していないことをご承知おきください。

アニメ版に対しての記事を通した原作の再解釈

アニメ版について書かれた記事をきっかけにして、原作を改めて解釈してみました。
 この項目内の記述は、アニメ版では、といった感じで明記していない部分は基本的に原作に対しての記述です。

アニメ版批判記事を通した原作再解釈

ATRI -My Dear Moments-のアニメについて
記録2公開後に拝見した記事。

アニメ版批判が本題の記事なのですが、原作の解釈についての説明の中には私が見逃していた部分についての言及もあって、私の解釈の甘さや注意力、読解力の低さを痛感しました。
(ただ、時よ過ぎゆけ~という言葉に夏生が込めた意味や、キャサリンが31年前の事件を知った経緯といった作中で明示されていることへの認識が私とは異なっているようで、もしかしてゲームのバージョンによって違いのある部分?)

さらに他のアニメ版感想記事を拝見してからの原作再解釈

「人間の役に立たなければならないとアトリは信じ込まされており」

加筆分

【心を持つロボットとどう向き合うか?】 ATRI-My Dear Moments- #好きなアニメを語る

アトリはヒトの役に立つために生み出され、アトリ自身それが自らの存在意義であることを認識しています。
 しかし、では、「ヒトの役に立つ役割」はアトリの言動に対してどれくらいの強制力が働いているのか? ということは、こちらの記事を拝見するまでは考えてもいませんでした。
 原作では、有用性を示さないと不安、といったアトリのセリフがあり、「ヒトに尽くすのが喜び」くらいならまだ自発的な奉仕の精神くらいの印象ですが、「そうしないと不安」までいくと精神的な刷り込みによって実質的に強制された思考という印象が確かに出てきます。

過去にアトリが学校で事件を起こした後に、詩菜から拒絶されながらも詩菜の役に立つために行動し続けていたというのも、そうしないといけないという強迫観念のようなものに突き動かされたからと考えると、あの時のアトリがそのように行動したことが納得できるように思います。

アニメ版でも原作でも、作中では持って生まれた役割からアトリが解き放たれる描写はなかったと記憶しています。
 しかし、エデンでの役目を終えて夏生と最後の再会を果たしたアトリは、持って生まれた役割から解放された状態での日々を過ごすことができたのではないかと思っています。

夏生が言っていた「今度こそアトリを救う」というのは、持って生まれた役割に縛られたアトリの心を解き放つという意味もあったのかもしれません。

「『暴力によって主を助けることは正しいこと』という成功体験を与えなかったことはアトリにとっても良かったことだった」

#ATRI -My Dear Moments- 第10話 感想

これは本当にその通りだと思います。

アトリの人格って、善良なのではなくてあくまで無垢なんだと思うのです。だから必要に迫られれば暴力の行使が選択肢に入ってくる。

アトリが過去に学校で起こした事件はアニメ版では殴ったのは1回だけという印象の描写だったのですが、原作では何度も執拗に殴っている描写があって、原作では、おそらくはその情け容赦ない攻撃性も含めての「バケモノ」という言葉だったのだろうと思います。

そう考えてみるとアニメ版が1回殴っただけでバケモノ呼びなのは説得力が弱いように感じるものの、三原則で禁じられているハズのヒトへの攻撃が可能であるという時点でヒトが理解できない存在となっているとも言えます。
 ならば、バケモノと呼ばれる理由としてはそれだけで十分だったのでしょう。

アニメ版でも原作でも、この時の出来事では暴力の行使が成功体験にならなかっただけで、暴力の行使自体を誰かが咎めるような描写はなされていないように見えます。
 自他ともにアトリには心がないという認識を持っている状態であり、本来は三原則で禁止されているハズの行為な訳で、暴力はいけないことであるとアトリを叱るという発想は誰にもできなかったのでしょう。

事件の後、唯一、アトリに心があると気付いていたであろう小西先生だけがアトリを叱るという発想を持てた可能性があるように思いますが、その発想ができたとしても、周りの状況が叱る機会を失わせていたのかもしれません。

以下、駄文(アニメ版で気になったこと)

さて、個人的にはここからがこの記録3の本題ですが、駄文率も高めなのでご注意。

アニメ版を見ていて気になった部分は3つあって、

  • ヤスダが学校占拠した理由が分からない
  • 最後の「あの約束の場所」の約束って何?
  • 水菜萌があまりに悟りを開いている

前2つから、尺の都合などで原作にあるイベントをいくつかカットしているのでは? と思い、ノーカットでのお話を知りたくなりました。
 また、水菜萌が夏生を導いてくれるとても達観した様子のキャラクターであったことから興味を抱き、ノーカットのお話で描かれているであろう水菜萌の詳細なエピソードやさらなるエピソード、それらの背景が知りたくなりました。

結局は、原作からお話がカットされていたのではなくてアニメ版のオリジナルな部分だったので、原作を読んでも分かるものではありませんでした。

当初の疑問は解決しなかったものの、もちろん、アニメ版はアニメ版として、原作は原作として楽しませてもらいました。

この作品に限らず、アニメでその作品の存在を知って、気になることがあったので詳細を求めて原作に手を出す、ということはこれまでにもいくつもありました。
 しかし、そこで原作にも手を出した結果として、ここまで原作に心を持っていかれたという体験にまで至ったことはかなり少ないです。

アニメ版との出会いがこの素晴らしい原作との出会いのきっかけとなってくれたことは、私の人生の幸運だと思っています。

気になった内容の詳細

学校占拠

原作では

原作でヤスダが学校を占拠したのは納得できます。

学校に来た理由

ヤスダはキャサリンを利用してアトリを回収させようとしていたので、現状把握を目的とした情報収集のためにキャサリンと接触するのは妥当な行動でしょう。
 その次のアクションとして回収対象であるアトリに接触するにしてもアトリの周囲にいる人を内から崩すにしても、既知の仲であるキャサリンを起点とするのもまた妥当な判断でしょう。
 学校は定期的に一定の年齢層が集まる場所であり、この町にある学校はここだけのため、アトリがこの学校に通っていることを把握するのはそれほど難しいことでもないハズです。
 学校はランドマークとして利用されることも多い施設なので、学校の場所を調べるのは簡単だと思います。

原作のヤスダには手下はおらず単独で行動していて、町の外から来た人物で目立つため尾行が必要なことは難しいでしょうから、アトリの住居を特定できていなくても不思議ではありません。
 特に、夏生が学者先生と認知されているあの状態で町の住人にとって見慣れない人物が尾行なんてしようものなら、よほど時間をかけて慎重に事を進めない限りは簡単にその存在がバレて警戒されてしまうことでしょう。
 そもそも、キャサリンと接触した時点である程度は警戒されることを想定していたと思います。
 島の警察が機能していないことを把握できるだけの調査能力はあるので、尾行だってその気になれば可能なのでしょうが、より少ない労力でより確実に目的を達成できる方法があるならそちらを優先するのが普通でしょう。

占拠するに至った理由

アトリが30年前に起こした事件のことをヤスダ自身がキャサリンに教えていることから、学校侵入時にお目当てのアトリがいなかったのは想定内だったと思います。
 その時、自発的にアトリを呼びに行ってくれる人が現れました。都合が良いのでこの場で待つことにした訳です。
仮に誰もアトリを呼びに行ってくれないようであれば、その場にいる誰かを脅してアトリを連れてくるように命令することもできたと思います。あるいはアトリの所に案内させるとか。

町で騒ぎを起こせば邪魔が入る可能性が高いですが、学校であれば基本的に部外者は入って来ず、学校には大人は一人しかおらず生徒も数人なので邪魔される可能性は町の中よりはまだ低いでしょう。

都合が良いから学校を占拠しただけで、おそらくはアトリを回収するための策は他にもいくつかあったのだと思います。
 この数日前にアトリの購入希望者が現れたとジャンク屋から告げられていますが、おそらくはこれもヤスダの策のひとつだったのでしょう。

柔軟に複数の策を用意していて、あの瞬間において最も都合が良かったのが学校を占拠することだったのだと思います。

アトリの残り寿命を知ることも占拠した目的のひとつだった

突発的に学校を占拠するというのは、計画的にことを進めようとしていたそれまでのヤスダの印象とは逆の行動に思います。
 しかし、原作は原作でヤスダには強引にでも動かなければならない理由、あるいは強引に動いても支障が出ない理由があったのだと思います。

ヤスダはアトリと対面してすぐにアトリに残り時間のことを聞いています。
 これが、ヤスダがアトリと対面したかった理由のひとつだと思うのです。

ヤスダの目的はアトリの回収・廃棄だった訳ですが、問題視しているのはアトリの脳であり、アトリの脳さえ機能停止すれば最低限の目的は果たせるのです。
 アトリの脳に寿命があることをヤスダは当然知っているべき立場で、設定してある耐用年数をすでに超過していることも認識しているハズです。
 乃音子の倉庫にアトリが眠っていることすらヤスダは把握していたと思われるので、今現在もアトリが稼働している事実と合わせて、アトリがコールドスリープ状態にあったことも推測しているように思います。

すでにいつ迎えてもおかしくはないハズのアトリの寿命が尽きるのを待って機能停止を見届ければ、それで目的を達成することができるのです。
 だから真っ先に寿命のことをアトリに問いかけたのでしょう。

もしもこの場でのアトリの回収・廃棄に失敗しても、アトリの周囲にいるヒト達から警戒されても、アトリに残された具体的な時間を知ることができたので、ただ待っているだけで目的を達成できる状況であることが分かったのです。
 これはヤスダにとっては学校占拠という行動に出るだけの価値のある情報だったのではないでしょうか。

待っていれば良かったハズの状態であってもヤスダがアトリを破壊しようと動いたのは、やはり恨みの感情によって直接手を下さないと気が収まらなかったのだろうなと思います。

結果的に、ここでヤスダが強引な行動を起こしたからこそ先生の研究が成就していたことを知ることができ、完全にとまではいかないまでも、ヤスダにも先生にも救いがもたらされたと思います。

アニメ版では

逆に、アニメ版のシナリオではヤスダが学校を占拠する理由が分からないのです。

アニメ版でもアトリを回収するために複数の策を用意していると思われる描写があるのですが、原作とは違って、もっと確実で良い方法があったであろう中でわざわざ学校を占拠するに至る合理性が見いだせないのです。

アトリの現在の所有者である夏生に回収の同意書を渡しているので、それを拒絶されるまでは強硬策に出る必要性が薄いハズなのです。
 仮に強硬策に出るとしてもアトリの住居をすでに把握している状態なので、わざわざ学校を占拠して犯罪行為の目撃者を増やすようなことをする必要性も分かりません。

アトリの住居への襲撃がすでに失敗に終わっていることからやり方を変えた結果なのかもしれませんが、だからといってわざわざ学校を占拠するのはヤスダにとって都合の悪くなる要素しか見当たりません。
 人を使って襲撃させて自分は陰から見ていたのが、自ら人前に姿を現しています。
 周囲の人目がない場所で夜間の襲撃だったのが、人目のある場所で日中に騒ぎを起こしています。

それまでは結構慎重にことを進めようとしていたハズなのに、ここにきて突然大胆な動きをしているのです。
 このタイミングで大胆に動く判断をした理由があるハズです。

反撃への対策だった?

30年ほど前の事件でアトリがヒトに危害を加えた事実があるので、反撃を防ぐために人質が欲しかった、という可能性が考えられます。

学校を占拠して人質を取ったことは確かですが、しかし、アトリをあの場におびき出すためだけの人質だったようで、アトリが到着してすぐに人質を開放しています。
 反撃を防ぐための人質だったのなら、ことを成し遂げるまでは開放しないハズです。

手下が銃を構えているので手元から解放しても人質としての効果は続いていると考えることもできるのですが、実際に反撃を受けてもなにも対応できていなかったことから、やはり、反撃を防ぐための人質ではなかったのでしょう。

あるいは、ヒトより大きな力を持つ存在からの一方的な暴力を目の前にして思考が停止してしまい、せっかく確保した人質も利用することができなかったのかもしれません。

暴走ロボットの証人にしたかった?

アトリがヒトに対して攻撃できてしまう危険なロボットであることの証人としてギャラリーが必要だった、という解釈を見かけました。

アトリから反撃を受けて、それが三原則に違反した暴力であるとしてギャラリーに対して嬉しそうにアピールしていたような記憶が確かにあります。
 アトリを暴走ロボットとして合法的に堂々と処分しようとするなら、その行為の正当性を確保することは大切なことです。

しかし、社会的な正攻法で攻めるつもりなら、少なくとも暴力アピールする瞬間まではヤスダ自身はギャラリーから見てクリーンでいる必要があるハズです。
 暴力アピールをした時点で、ヤスダは学校を占拠して、子供を人質に取って、手下が人に向けて発砲しています。すでに犯罪者です。
 あの状況でアトリが暴力をふるったという証人を作ったところで、誰もヤスダの味方をするハズがありません。人命を守るためにそうするしかなかったとか、ヒューマノイドが暴力ふるえる訳がないのでヤスダを攻撃したのはヒトだったとか、そういったアトリをかばう方向の証言がなされるだけでしょう。

それならば、あの嬉しそうな暴力アピールは何だったのか?
 少なくとも、社会的な正当性を得るとか、計算されつくした誘導で罠にハメたとか、そういったことではないように思います。そのための前段階がすでに成り立っていないのです。

三原則を冒した暴走ロボットだと証明できたことで、自分の復讐が正当な行いであると示せて嬉しくなっちゃったのではないか、というのが私の考えです。
 なんか、アニメ版のヤスダがとんでもなく小物に思えてきた……。

破壊が目的ならもっと良い方法があったハズ

タイムリミットの理由が原作とは別設定なので、アトリにタイムリミットがあることをアニメ版のヤスダは知らないはずです。(というか、アニメの設定だとこの時点では夏生も知らないし、もしかするとアトリ自身もタイムリミットの存在を知らなかった可能性があるように思います)
 そのため、時間切れまで待つという選択肢がアニメ版のヤスダには無く、自分が何かしらの行動をしないことにはアトリの回収・廃棄という目的には近づけないと認識していたであろうことが、ヤスダが積極的に動いた理由のひとつではあると思います。

ただ、すでに述べた通り、ヤスダは夏生に回収の同意書を渡してその返答を待っている状態だったハズなのです。
 証人を作ってその場でアトリを破壊する正当性を得ようとするのなら、強硬策に出るのなら、最も正規の手順と言える回収の同意書が拒絶されたという前提が必要だったと思うのです。

そもそもヤスダは、自分自身は陰に隠れていたとはいえすでにアトリの住居への襲撃を実行済みです。
 そのうえで、自分自身が犯罪者になることを厭わないのであれば、ただ単にアトリを破壊できればそれでよいというなら、学校を占拠するなんて手間をかけなくても、今度は自分自身でアトリの住居への闇討ちを実行した方がよほど成功率が高いと思います。

わざわざ本土の警察に連行する必要があるくらいには島の警察が機能していないので、襲い掛かって目的を果たしたらすぐ島から脱出してしまえば逃げ切ることも難しくはなかったように思います。

世の中案外不合理で動いている

30年ほどの長期にわたってずっと憎しみを抱き続けてきたヤスダが合理的な思考のみで動いているとは限りません。

しかも長年追い続けてきた憎き存在であるアトリを実際に目の前にして、冷静でいられなかった可能性も考えられます。

公開処刑がしたかった、と考えると割とだいたい説明がつく気がします。

回収同意書を渡したもののどうせ廃棄するんだし、憎きアトリを目の前にしてもう待っていられない。
 アトリが仲間たちと大切な日々を過ごした思い出の場所である学校で、その仲間たちの目の前で、ヒトではなくてモノであることを見せつけながら廃棄処分してやろう。

アニメ版ヤスダには救いもない

アトリを破壊するために暴力をふるったヤスダは、アニメ版では武力制圧されただけなのでアトリの心の有無についてはまだ納得していないように思います。
 それ以前に、原作のヤスダと同じ思想をしているとは限らないので、アトリの心の有無に関心がない可能性すらあります。

あの場にいた実行犯のヤスダと手下だけを警察に突き出してお終い、というのも違和感があります。
 あの世界では原作よりもはるかに車が貴重になっていると思うのですが、おそらくはあの島にわざわざ車を持ちこんできていています。手下もいるし銃も持っている。アニメ版のヤスダは組織的に動いているように思うのです。
 ヤスダをどうにかしても、その背後の組織がアトリの事を諦めない限りはまだ安心はできないのです。

アトリがエデンで眠りについた後も、そうとは知らずにすでにいなくなったアトリを狙って無駄な労力を払い続けることになるであろうヤスダやその背後の組織の事を思うと、原作よりもはるかに救われない存在だなあと。あまりに哀れだ。

ヤスダ自身がその組織のトップだったとしたら、今回の犯罪行為でヤスダの身柄が警察に引き渡されたことで組織を維持できなくなって崩れるのかもしれません。
 しかし、一生自由を奪われたままになるほどの犯罪行為であったとも思えないので、余罪とかがないならいつかは自由の身となるハズです。
 組織はなくなったとしても、ヤスダのアトリに対する恨みはなくならないどころか増幅していてもおかしくない訳で、全く救いがないのですね。

最後のシーンの「あの約束の場所」

あの場所で会う約束

最終話の最期のシーンで、詩菜との約束の場所というセリフが出てきますが、この約束とはどんな約束なのでしょう?

原作では夏生が片足を失った8年前のあの事故のあった場所には詩菜もアトリもいて、そこであのガケの上でまた会う約束が交わされたことが明示されています。

それに対してアニメ版では、最後にこのセリフが出てくることから、詩菜とアトリとの間でまた会う約束がなされていたであろうことは分かるのですが、その約束が実際になされた描写は明示されていないと記憶しています。
 それらしきものとして思い当たるのは、詩菜が「また会いたい」と言っていたと夏生がアトリに伝えたことですが、これは詩菜の願望であって、これを約束というには弱いように思います。

最後の最後に出てくるセリフであり、特別な意味が込められていると思うのですが、その意味を考えるための情報があまりに少ないために突然出てきた謎のセリフとなってしまい、視聴者としては置いてきぼりになってしまいます。

1話の冒頭で夏生が片足を失ったあの事故の時に夏生が母親から教わった歌を誰かが歌っている声が夏生の耳に聞こえたことで詩菜が近くにいると夏生が思う描写があったり、アトリのサルベージ後に海に落ちた夏生をアトリが助けに行く場面でアトリの姿が詩菜のように見える演出があったり、オープニングのムービーで夏生を抱く詩菜と思われる絵があったりと、詩菜と夏生とアトリとの3人の関係を描こうとしていると思われる部分があることは確かです。

しかし、詩菜とアトリとの間で交わされた約束について作中で明示されていることは少ないのです。

そちら方面の掘り下げが足りないように見受けられるため、その結果としてこのセリフが蛇足になってしまっているように思います。

ここでの約束≠最後の命令

原作では、アトリが探していた「最後の命令」とは、詩菜の最期の時に詩菜とアトリが交わした約束のことでした。
 命令の内容のみならず、誰がその命令を与えたのかということについても、ストーリーの重要な要素となっています。

アニメ版では第1話の時点で「最後の命令」は乃音子がアトリに与えた命令であると明示されていて、最後まで乃音子が与えた命令のままでお話が進んでいきます。
 少なくともアニメ版において、最終話の最後のシーンで出てくる「また会う約束」は「最後の命令」とは関係がない可能性が高いと私は考えています。
 ただし、また会う約束が最後の命令ではなかったとしても、原作での約束と同じように詩菜とアトリがまた会う約束をしていたという可能性を否定できません。

しかし、詩菜とアトリがなんらかの約束を交わしていたという描写がそもそもなく、いつ、どこで、どんな約束をしたのかという情報も示されていなかったと記憶しています。
 詩菜がすでにいなくなってしまったヒトであることは明示されていますが、原作と同じように夏生が片足を失ったあの事故で亡くなったのかは明示されておらず、その最期にアトリが立ち会っていたのかも明示されていません。
 あの事故の場にアトリがいたことをにおわせるような描写はあるものの、あの事故の場に詩菜がいたことは全く示されていないため、そこでアトリと詩菜が会っていたかどうかは全くの不明なのです。
 明確に分かるのは、「あの場所で会う」という約束を詩菜とアトリがいつのまにか交わしていた、ということだけなのです。

最終話のアトリのセリフの感じから、この約束のことを夏生も知っているとアトリは認識しているように思います。
 おそらくは、アトリが詩菜と過ごしていた頃の古いログに約束のことが記録されていたのではないでしょうか?
 ヤスダが持っていたアトリのかつてのログを、夏生も今のアトリも読んでいます。
 それによってかつて詩菜とアトリとの間で交わされた約束のことを、夏生は知り、アトリは思い出したのだと思います。

原作と同じ内容の約束だったと仮定して

仮に、原作と同じ約束がなされていたという設定だったなら、仮想世界で思い出の場所を再現してすでに亡くなっている詩菜をデータで作って再会し、それで約束を果たしたことにするという意味のセリフなのでしょうか?

アニメ版ではアトリと詩菜との別れは描写されていませんが、詩菜が大好きで、悲しむ心を持っているアトリならば、やはり原作と同じように詩菜の死を理解し悲しんでいたハズです。
 そんなアトリが、このような死者を冒涜するようなことを考えるとはとてもじゃないけど思えません。

ならば、もっと単純にただ単に「思い出のあの場所にもう一度行こう」という意味のセリフである可能性も否定はできませんが、それなら「約束」という言葉は出て来ないと思いますし、最後の最後に出すセリフとしてはあまりに軽く薄っぺらい発言になってしまいます。

やはり、詩菜との約束についてオリジナルな設定がちゃんとあるんじゃないかと思います。
 本当は詩菜との約束をちゃんと掘り下げる構想もあったのかもしれませんが、尺の都合などによってカットされてしまった、というのことなのかもしれません。

原作をプレイしたヒトへのサービス?

もしかすると、原作をプレイしたヒトに対するサービス的なメッセージだったのかもしれません。
 詩菜にとってあのガケの上は大切な場所であるということ、アトリと詩菜との約束がどんな約束だったのか、詩菜の最後の望みは何だったか、そういったことが原作をプレイしたヒトであれば分かっている訳で、あのセリフの意味を理解することができます。

ただ、その場合は、アニメ版がオリジナルな設定を使っている中でそこだけ暗黙的に原作の設定になる訳で、これだけオリジナルな設定を使っているシナリオであるならそういったことはシナリオに関係ない範囲でもっとさりげなくやってほしいなというのが私の個人的な想いです。

私はアニメ版を見てから原作をプレイしていたこともあって気付いていなかったのですが、他の方の感想記事をいくつか拝見していて、アニメのいくつかのシーンでは原作のCGを意識したカメラアングルになっているということを知りました。

アニメ版しか知らないヒトにとっては何の支障もなく、原作を知っているヒトにとっては嬉しい。
 原作をプレイしたヒトへのサービスをしてくれるというのなら、私だったらこれだけでもう十分に満足できます。
(原作のCGを意識したカメラアングルは意図した演出であるとインタビューにありました)

悟りを開いている水菜萌

設定上、もはや別人でした。

悟りを開いていると思わせられる水菜萌の言動

  • 親に反対されたまま一人で島に残って学校を維持している
  • 夏生の色恋関連の話題に対して、そういったものとは違うのではないかと達観した感じで見守っている
  • アトリに心は無いのではないかと夏生が気付いてからのシーンで、知っていたのかと問われてものすごく落ち着いた感じで「人間だって同じじゃないかな」と返した
  • アトリとの別れの時に夏生を支えて欲しいと頼まれて、自分には自分のやることがあると返した
  • お互いに支えあるのではなくて、お互いに相手のことを思うことで心の支えとして、それぞれで頑張ろうと言えるだけの強さを持っている

結局、アニメ版の水菜萌はどんなヒトなのでしょう

夏生が悩み精神的に揺らいでいる場面であっても、すでに答えを知っているかのように落ち着いた感じで優しくさとし、導くような言葉をかけてくれます。
 自分のすべきことをしっかりと見据えていて、自分の力で歩もうとするだけの覚悟と力強さを持っています。

年齢に対して精神的に落ち着きすぎているように見えるし、相当に強い芯を持っているのです。
 これはもう、何か悟ってるでしょ? と思った訳です。

そのため、そんな水菜萌の背景に興味を持ち原作でもっと詳しいことが描かれているのを期待したのですが、アニメ版だけのオリジナルな設定でした。

明確に設定が異なっているお話である以上は別人になっていることそのものについては別に悪いというつもりはないのですが、結局、アニメ版の水菜萌がどんな人物なのかという追加の情報が原作からは得られなかったことが残念です。



以上の3つの項目が、アニメ版を見ていて気になったことでした。

記事公開後に新たに気になったこと

眠ったアトリの元へ還るまでにアニメ版と原作とでなぜ10年の差があるのか?

加筆分

アニメ版と原作とでは設定が異なっているため経過年数を合わせる必要性は薄いハズであり、しかし、同じ経過年数であっても問題はなかったハズです。

その前提で、ではなぜ眠りについたアトリの元に夏生が還るまでに10年の差が生じたのかを考えてみます。

それぞれの夏生が目指した未来

原作ではアトリとの約束でもあり、アトリを救うために必要な過程だったこともあって、夏生は地球を救う必要がありました。
 そして、地球を救う手段として、乃音子の研究を受け継いでフロート都市構想の実用化を達成します。

アニメ版では夏生自身が地球を救う必要性がなく、夏生の全てのリソースを直接的にアトリを救うためだけに使うことができる状態だったと思います。
 おそらくはその結果が、心を持ったヒューマノイドの普及と、ヒューマノイドの人権が認められた世界だったのではないでしょうか?
 これだけのことを成し遂げるためには、夏生が全てのリソースをここに費やすことができていたとしても原作+10年でもまだ足りないくらいではないかと私は思いますが、高性能な夏生ならば可能だったのでしょう。

アニメ版の夏生の当初の予定では、エデンで眠るアトリを起こして現実世界で再会を果たしたかったのではないかと思っています。
 その時のためにヒューマノイドに人権が認められた世界を作ったハズだからです。

しかし、アトリのメモリ消去を阻止したうえでカプセルから出す方法を見付けられなかったため、夏生のほうをデータ化して電子の世界でアトリと再会するという結論を出したのだと思います。

原作でも夏生の功績としてロボットAI技術の発展が挙げられていますが、残念ながらヒューマノイドに心を宿すには至っていない様子です。
 そこからあと10年でロボットAI技術やそれを取り巻く環境がアニメ版の世界と同じくらいに発展するかを考えてみても、難しいように思います。
 ロボットAI技術においては、アニメ版の方が少なくとも2,30年くらいは進歩した未来になっていると考えています。

アニメ版においては少なくとも、心を持ったヒューマノイドの普及という部分は小西先生の研究を引きついだ形になっていると考えられます。
 そうすると、アトリの関係者という理由で夏生にも恨みを抱いていそうなヤスダが妨害してきそうな気がします。その時になってようやく夏生とヤスダとの間で和解に向けた流れができるのではないかと思います。

心を持つヒューマノイドが普及しているアニメ版の世界では、心を持った最初のヒューマノイドであるアトリという存在が公表されているかは分かりませんが、少なくとも、その最初のヒューマノイドを作った偉人として小西先生の名誉は回復して歴史に名を残しているハズだと思います。

フロート都市構想の実用化

ロボットAI技術においてはアニメ版の世界のほうがより発展した未来になっているものの、フロート都市構想の実用化においてはアニメ版の世界の方が遅れた未来になってしまっているように見えます。

これは、原作とアニメ版とで夏生が目指した未来が違うことのみならず、そのスタート地点となるエデンの位置付けもまた異なっていることが影響しているように思います。

原作のフロート都市構想

エデンはあくまでフロート都市構想のための実験施設です。
 エデンをそのまま実用化することは想定していないハズで、実際、フロート都市構想を実用化した施設としてノアが作られ、量産されます。

乃音子は企業と共同でエデンの研究・開発をしており、夏生の元に資料も残されていたため、エデンに使われている技術を理解するための情報が多かったハズです。

夏生は地球を救うための手段として、フロート都市構想の実用化を実現します。

おそらくは夏生と共に作った発電機がきっかけで凜々花はエネルギーの専門家となる未来を選び、おそらくはノアの発電方式には凜々花の成果が生かされています。

アニメ版のフロート都市構想

エデンは乃音子がひとりで作ったとされています。
 乃音子は秘密主義だったらしく、エデンに関する資料はおそらく残されておらず、きっとブラックボックスが大量にあるのだと思います。

人類の生活の場としてエデンが量産されます。
 解明できないブラックボックスによって、そのままコピーするのがやっとだったのかもしれません。

アニメ版の夏生は、少なくとも原作ほどはフロート都市構想の実現化に対してリソースを割いていないと考えられます。

おそらくはそれがアニメ版の夏生のかつての夢だった影響で、凜々花はロケットに乗る未来を選択していて、おそらくは原作の凜々花が実用化した発電技術はアニメ版の世界では実用化されていない状態だと思います。

原作とアニメ版とでこのような違いがあったために、残された人類がエデンに使われている技術を自分たちのものとして吸収できた量や質に差が生じ、アニメ版の世界ではフロート都市構想においてはエデンから先に進めなかったのだろうと思います。

そして、この技術の遅れが、エデンが役目を終える時期が原作よりもアニメ版のほうが10年遅れた理由ではないかと思います。

尺という時間の制約がある中でエデンを実用化したノアという施設のことまで説明していられないので、アニメ版ではエデンしか登場させなかったというメタ的な事情があったのかもしれませんが……。

主人公の行動の結果が10年の違い

  1. ヒューマノイドに人権が認められた世界を実現するための時間が必要だった。
  2. 人類の海洋進出技術の遅れによりエデンが役目を終えるまでにより長い時間が必要だった。

この2つの理由によって、原作とアニメ版とで夏生がアトリの元に向かう機会が巡ってくるまでに10年の差が生じたのだと思います。

ついでなのでメタ的な理由も考えてみます。

本人が生きていて、かつ、孫の世代が成長してそれぞれの人生を歩んでいる描写のために、原作よりも10年多い70年後とした可能性を考えてみたり。
(各世代、35歳くらいで子供を産んだとすると、15年後くらいに子供世代誕生、50年後くらいに孫世代誕生、70年後に孫世代がだいたい20歳)

アトリを含めた夏生たちの世代が切り開いた未来の世界を視聴者に示しつつ、夏生たちの世代が20歳くらいのときにどんな感じだったのかを孫を通して見せるという演出なのかもしれません。

夏生が片足を失った事故のシーンで聞こえてきたあの歌

加筆後の加筆

アニメ版の冒頭、原作でのトンネル崩落事故に相当する何らかの事故現場のシーンにて、足を瓦礫に挟まれて身動きが取れない夏生の耳に届いた(おそらくは)アトリの歌声。

よくよく考えてみると、あの状況で(推定)アトリはなぜ歌を歌っていたのでしょうか?

あんな状況で歌を歌う。気がおかしくなっていたとかでないならば、明確な意図を持って歌っていたと考えるのが自然ではないでしょうか?

あの歌は詩菜とアトリが自分の居場所を相手に知らせるための合図のでもあったことから、暗闇の中、あるいは瓦礫で姿が見えない中で詩菜に対してアトリが「自分はここにいる」と知らせるために歌っていたのではないかと考えられます。

つまり、冒頭のあの歌は、あの場所には詩菜もアトリもいたことを表す描写であった可能性が高いのではないでしょうか?

あの場に詩菜もアトリもいたとすると

あの事故の現場に詩菜もアトリもいたのならば、原作と同じように、その時にあのガケの上でまた会う約束をしていたのかもしれません。

しかし、そうすると、最後のシーンで夏生もこの約束のことを知っているような感じの雰囲気だったのはなぜかという疑問が改めて出てきます。

先ほどは「アトリの昔のログによって約束のことを夏生も知ったのでは?」と述べましたが、夏生が片足を失った事故のタイミングで約束がなされていたのならばログには記録されていないハズなのです。
 アニメ版ではアトリの昔のログはヤスダの手元にあったため、回収されて脱走して以降のログは記されていないハズだからです。

作中では明確に描写されていないどこかでアトリから夏生に伝えていたのかもしれませんし、あるいは2人の記憶を合わせることで約束の内容が明らかになったのかもしれません。原作と同じように海底デートの時とか。

しかし、アトリの昔の回想シーンの前後の描写を改めて見てみると、アトリがメーカーに回収されてから乃音子の元で眠りにつくまでのことも、夏生はアトリの昔のログを見て知ったような感じの描写になっています。
 そうすると、アトリの昔のログには脱走してからのことも記録されていることになるのですが、脱走後もアトリの手元にあったハズのログをヤスダが持っていたのはなぜ? という新たな疑問が……。

あの事故の場に詩菜もいた可能性は高くなりましたが、結局、「約束」そのものについても、なぜ「約束」のことを夏生は知っている感じだったのかについても分からないままです。
 以前考えたようにログによって知ったのか、あるいは今回考えたように海底デートで明らかになったのか。

アニメ版におけるこの「約束」を読み解くにはまだ情報が足りないです……。

裏話的あとがき

ノベルゲーの感想記事を書くのが10年ぶりくらいで、つまりは、この作品にそれだけ強く心を動かされたということでもあります。

感想記事と言いつつ実際は個人的な解釈を書いている部分が圧倒的に多い訳ですが、衝動のままに書きたいことを書いていたらこのような内容になっていました。

原作をクリアした時はただただ作品世界の余韻に浸っていたいという思いだけがあって、実は、感想を書くつもりは全くありませんでした。

でも、だんだんとこの作品に心を動かされたという事実を記録として残しておこうという気持ちが強くなっていき、その結果として、ブログ記事として書いて形にして残しておこうと決めました。
 冒頭のログ風の部分も原作クリア後にまとめて書いていますが、できるだけ初プレイ時の感情を再現して書くように意識しています。

思い出を振り返りやすくするために、作中の出来事を時間軸でまとめた一覧表を記事に含める構想がありましたが、単なるネタバレ行為と変わらないように思ったのでボツにしました。

ログ風の部分

ログ風の文体にすること、涙したところに雫の跡を付けることは最初から決めていました。

この文体で書いているために普通の感想記事とは言えない体裁になっていると思ったこともあって、記事のタイトルも無機質な感じにしたかったのと、感想だけではなくて自分なりの解釈も含む内容であることから、記事のタイトルは「クリアした記録」としました。

作中の今の時間軸でアトリが書いていたログには日付が入っていないように見受けられますが、昔のログでは日付が入っていて、そちらのほうが私の印象に強く残っていたためにここでも日付を入れることにしました。

ある程度原稿が進んだ段階で、ログ風の文体の部分がよりノートっぽく見えるようにと罫線を表示することを思い付いて、このためだけに css を書き下ろし。
 雫の跡を付けるならば、そりゃあここまでやった方がより雰囲気が出て良いに決まっています。

第三者が目にすることを想定した感想記事として全編をログ風の文体にして書き上げるだけの力量が私には無いことから、普通に書くところは普通の文体にしています。

この記事中で主人公のことは主人公と記し彼女のことは彼女と記しているのは、当初は全編ともログ風の文体で書こうとしていた名残だったりします。
 シナリオで特に重要な人物に対してどこか他人行儀で距離を感じる表現をあえて使うことで、感情が感じられない無機質な雰囲気を出そうとしていた訳です。

詩菜のことをあの人と記しているのもこれと同じなのですが、こちらについては直接的なネタバレを避ける意味もあります。

加筆時追記
ノアについて言及する際に、エデンをあの施設と表記したままでは説明上の不都合が生じたため、この機会に本文中では全て具体的な名称での表記に変更しました。

3分割の記事

最初はひとつの記事にまとめるつもりだったのですが、文字数がある程度増えてきた段階でネタバレに触れるか否かで記事を分けようと思い、せっかくならと思ってテレビ版についても触れることにして、原作でログが3冊あったのに合わせて3つに分けることにしました。

その3だけログ風の文体がないのは、次のような理由があります。

  • 記録1と記録2のログ風文体の部分と内容のかぶりが多くなりそうだった
  • 原作とは違ってアニメ版は作中の出来事と日付との関係が明確ではない
  • 批判的な内容が多く、私の精神がそういったトーンでいられなかった

原作で3冊目のログの中身は読者には明かされていないし、筆者にとっては中身が存在しているけど読者にとっては観測できていない状態というのが原作と同じということで。

ところで、心を自覚してからのアトリのログはどんな文体で書かれているのでしょうね?
 それまでと同じかもしれませんし、心理的な描写が増えているかもしれませんね。

あとがきの最後に

アニメ版がきっかけで原作に手を出して、そして、気付いた時にはすっかり原作のファンになっていました。

この記事を公開した時点でゲームクリアしてから1ヶ月以上は経過しているのですが、未だに喪失感のような何かが心に引っかかる感じが消えていません。
 この記事の原稿が完成した時にクリア当時のその感覚がまた戻ってきたような感じがあって、だからこの記事を書いていたことがその感覚がなかなか消えずにいる要因のひとつなのだと思っています。

3つに分けた記事の最終回であるこの記事を公開したその瞬間にも、たぶんその感覚がまた蘇ってくる気がしています。
 この一連の記事を公開したことでひとつの区切りは付きましたが、この余韻はまだしばらくは続きそうな気がしています。

作品世界の余韻にずっと浸っていたいという想いがここまで長く強く表れた作品というのはこれまでの人生で片手に収まる数だけなので、今、そのひとつに出逢えたことは本当に幸せなことだと思っています。

この作品の曲を聴くだけで感極まってしまうためサウンドトラックの曲をまだ携帯オーディオプレイヤーに入れられないという話をしましたが、いつか、この作品の曲を携帯オーディオプレイヤーに入れて他の曲と同じように普通に聴けるようになったなら、その時こそが自分の中でのこの作品に対する本当の区切りになるのだと思います。

これほどに素晴らしい作品を世に送り出してくださった方々に、この作品に出逢えた幸運に、本当にありがとうございました。

加筆のあとがき

加筆分

記録1~3の3つの記事を公開してからもこの作品のことを色々と考え続けていて、原作とアニメ版とで最後のシーンまでの時間に10年の差があるのはなぜだろうか? とふと思いました。
 その理由を考えたりゲーム中の事実を確認しようとしている内に他にも疑問が出てきたので、せっかくならそれらも全て文字にして加筆分として記事に追加しようと思い、こうして記事を更新することにしました。

最初に3つの記事を公開した段階で合計の文字数が約3万5千文字で、加筆分は約1万文字あります。

ゲームをクリアしてから2ヶ月ほどが経過してもまだ、心はこの作品にとらわれたままです。これほどの体験をさせてもらえるゲームに出会えたことは、本当に幸せなことだと思います。


関連ページ

記録1
記録2(ネタバレあり)
記録3(アニメ版について)(ここ)

2 件のコメント:

  1. 「アニメ版批判記事を通した原作の再解釈」を「アニメ版に対しての記事を通した原作の再解釈」として再構成、追記
    「記事公開後に新たに気になったこと」を追加
    「あとがき」に追記
    一部表現を変更

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  2. 「記事公開後に新たに気になったこと」に「夏生が片足を失った事故のシーンで聞こえてきたあの歌」を追加

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