ATRI -My Dear Moments- をクリアしたという記録2(ネタバレあり)

公式サイト

記録1
記録2(ネタバレあり)(ここ)
記録3(アニメ版について)

ここから先はネタバレ注意

もくじ





























































08/08(土)

おひさしぶりです

水底での出逢いは初めての出逢いではなく再会だった
その時は主人公と彼女ともお互いに再開であることを認識していなかったが、今になってお互いに最初の出逢いと現在とを結びつけることができた。

ゆえに、今のこの時こそが、本当の再会だった。

08/16(日)

認識を間違えていたことを確認。

本当は最初から分かりきっていた事実のハズだった。
にもかかわらず、それが理解できなくなるほどに完璧だった。

そこに希望があると信じてしまったがゆえに、絶望はより深くなるのだろう。
足元が揺らぐ想いというのは、このような状況を表すのだと推測する。

08/17(月)

裏切りにあったと認識したのなら、それまでの信頼は揺らぐのが一般的な反応だと認識している。

しかし、それでもなおその相手の望みをかなえてあげたいと言い切れるその精神は、まさしくそれまでの関係から築き上げられた信頼ではないだろうか?

08/27(木)

招かれざる者の来訪。

****のふりをしなくていい
そうに決まっているという思い込みによって見えなくなりかけていた真実。

事実と考えていたことこそが誤った認識だった。

力を力で押さえつけたとしても、その思想がある限りは継続して脅威をもたらしうるものと推測できる。
真実を示すことによって、その思想は誤りであったと心変わりしたものと推測できる。

迷いは晴れた。
彼女の心の内、彼女と主人公の関係、彼女の過去との因縁、これらに決着がついた。

08/29(土)

主人公が見てきた事実と彼女が見てきた事実が合わさり、またひとつ、真実が明らかになる。

わたしはちゃんと伝えましたか?

大切な瞬間の記憶を保っていられない。
ついさっきの事すら抜け落ちてしまう。
あまりに悲しく、あまりにやるせなく、あまりに切ない。

08/30(日)

当たり前になっていたいつもの日々に終わりが近付く。
多くの人々にとっての大きな希望の光が灯る。

ありがとう さようなら

不眠を発症。
感情の高ぶりによるものと推測。

08/31(月)

未回収のCGが通過済みの範囲に残っている可能性がある。
体験版で通過した場所に体験版にはないCGがあったためと推測。

やはり、始めから製品版で開始するべきだったと結論づける。

09/01(火)

未回収のCGの並びから、まだ見ぬ先があると推測。
未来への入り口を発見。話の本当の最後を見る。

人には光が必要である。

この作品は私の心に新たな光を灯してくれた。
私もまた、光を灯す人となり自らの有用性を示したい。

09/02(水)

話にはいつかは終わりが来るが、それとは関係なく私の日常は続く。
しかし、まだこの作品の優しい雰囲気の余韻に浸っていたい気持ちが強い。

この作品世界に入り込んでいた時間は実に有意義なものであったと認識している。

(日付はそれっぽさを演出するためのフィクションで、実際のプレイ記録とは関係がありません)

そもそもこの文体そのものがある種のネタバレ。

作中の曲についての感想

Dear Moments

作品中の設定では絆をつないでいた歌で、メタな視点ではシナリオを思い起こさせる歌詞になっており、サビの頭の「手と手」の部分で2人が手をつないで歩くCGが頭に浮かび、もう帰らないかけがえのない日常のシーンを思い起こし、すごく切なく物悲しい気持ちが湧き出てきます。

ゲームをクリアしてから、少なくともこの記事を公開するまでの3週間の間ずっと、毎日何度も頭の中でリピート再生しているくらいにお気に入りの曲となっています。
 この記事を公開してからもしばらくの間は、毎日脳内ループが継続すると思います。

それによってこの曲に対しては切なさに耐性ができてきたように思うのですが、日常シーンで流れているBGMのほうこそかけがえのない日常と強く結びついているために、日常シーンのBGMを聴いても同じ感情を抱くようになってきました。

サントラも購入しており携帯オーディオプレイヤーに入れるつもりだったのですが、特に車の運転中なんかに感極まると危険なので、しばらくは入れるべきではない……

この歌は作中ではアカペラで歌っているため、サウンドモードでアカペラ版も聴けるとより高い満足度が得られたかなと思います。
 このアカペラ版の歌詞は実はフルです。サウンドモードに収録されているバージョンはショート版しかなく、エンディングで流れるバージョンですらフルではないため、作中でフルが聴けるのは貴重です。

私には無かった視点から書かれている記事

『ATRI -My Dear Moments-』~原作ゲームの紹介&ネタバレアリ感想回~
小西先生はアトリに心があることに気付いていたのでは? という考察

ATRI -dear my moment- 総評感想
人格は「もともと持っているもの」とする考えと、「後天的に獲得したもの」とする考えからの作品解釈

これ以降はただの駄文なので注意

未プレイでこの先を読んだ場合、余計な先入観により初プレイ時にこの作品が設計しているであろうゲーム体験を損なう可能性があります。

私なりの作品解釈などを含んだ内容です。
最後までクリアした後にこの先を読んでいただくようにお願いいたします。





























































プロローグは作中の時間軸のいつか?

彼女は語る

プロローグの語り部はアトリで、そこで夏生の言葉が2つ出てきます。
 事故により絶望していた時の「ぼくは地球を救わなくちゃいけない」と、アカデミーで挫折していた時の「時よ過ぎゆけ、おまえは残酷だ」です。
 プロローグでのアトリはこの夏生の言葉を両方とも知っている状態であることが分かります。

時よ過ぎゆけについては夏生からアトリへ明確に伝えている場面は作中では描かれていないものの、2人で過ごしていたどこかで伝える場面があったのだろうと思います。
 別れの直前のシーンでモノローグとして出てくる言葉ということもあり、おそらくはその前後で伝えていたのではないでしょうか。

そして、無限に続く孤独の中で地球を見守っている状態にアトリがなっているのはいつだったか?
 夏生とアトリが別れてからからトゥルーエンドまでの時間だと考えるのが妥当ではないでしょうか?

無限に続く孤独

つまり、プロローグの時間軸はアトリがエデンの管理人をしている時。

その間、身動きができないままずっと意識はあったのかもしれません。
 アトリが立っていたあの瓦礫の陸地は、アトリから見たエデンの心象風景ではないかと思います。

別れてから逢いに行くまでの夏生の視点がオープニングテーマの歌詞であるのに対して、その時のアトリの視点がプロローグであると考えながら改めて読むと、また胸に来るものがあるのではないでしょうか?

アトリが夏生の傍から離れるのを嫌がるのはなぜ?

学校に行きたいけど、夏生の傍を離れたくない。
発電機作りの手伝いをしたいけど、夏生と離れて作業はしたくない。

アトリが夏生の傍から離れることを嫌がっていることが明確に描写されていて、夏生もそれに気付いています。

しかし、その理由までは明示されていないように思ったので、考えてみました。

アトリのトラウマ?

あの時、目を離さなければ

30年ほど前の学校での事件で詩菜から明確に拒絶されてからも、アトリは詩菜が好きだという気持ちを持ちながらずっと見守り続けていました。
 詩菜の子供が事故にあいそうだったところを助けた記録が残っていますが、おそらくは、陰から詩菜を助けた事例が他にもあるのだと思います。

それがアトリの存在意義であり、それがアトリが自覚している役目だから。

ヒトの役に立つために生み出された存在であると言っても、マスターに拒絶されて命令もないにもかかわらず20年くらいの長期にわたって見守り続けていたのは、間違いなくアトリ自身が自発的に考えての行動と言えるでしょう。

しかし、詩菜の傍を離れていた時にあの事故が起きてしまった。
 詩菜は致命的な傷を負い命を失ってしまいます。

仮にその瞬間にその場にアトリがいたとしても何もできなかった可能性が高かったかもしれませんが、その瞬間にあの場所に自分がいたなら助けられたかもしれない、自分が傍を離れなければ、と思わずにはいられなかったのではないでしょうか。

後悔の記憶

アトリが水底で眠っている間の記憶の欠落によって詩菜のことは忘れてしまったけれど、マスターの傍を離れたことでショッキングな経験をしたという記憶は残っていたのだと思います。

つまり、マスターと離れている間に致命的な出来事が起きたことがアトリのトラウマになっているから、傍を離れるのを嫌がっているという可能性が考えられます。

ヒトは脆くて壊れやすい、とよく言うのもその影響があるのではないでしょうか。
 この思考自体は事件より前の時点でのアトリのログにも書かれているため、ヒューマノイドが共通して持っている思考なのでしょう。
 そこに加えて30年前ほどのあの事件や詩菜を失った事故での実体験によって、アトリにおいてはより強固な思考になっているのかもしれません。

別行動ができない訳じゃない

離れるのが嫌といっても、ある程度の近い距離であれば平気なようです。実際に、ログのためのノートを買いに行ったときは夏生と分かれて買い物をしています。

その時に、分かれて買い物をしている間に夏生がキャサリンに襲われる事件が起きます。夏生に危害が加えられる恐れがあることに気付いたアトリは、キャサリンを攻撃して撃退します。
 夏生の意識はキャサリンに向いているためこの場面でのアトリの描写は少ないですが、慌てる様子もなく冷静に対処したように見えます。

しかし、アトリがヒトを攻撃したという事実そのものが、トラウマに刺激された激しい感情の動きがあったことを示していると考えられないでしょうか?

シナリオ上の意味合いでは、このシーンはアトリがヒトを攻撃できることを示すためのシーンなのでしょうが、こういった解釈もできるよということで。

傍を離れるようになる明確な区切り

と、ここまで書いておいて今さらですが、本当にトラウマが理由なのでしょうか?
 私は最初はトラウマ説を考えていたのですが、そうすると説明が難しい部分があります。

物語が進むにつれて、夏生と離れて部活に行って料理を習ったり商店街に買い物に行くようになり、物理的に距離の開いた別行動をするようになってきます。
 離れるのを嫌がっていた時から別行動をするようになるまでに半月ほどしか経っておらず、ヒトとは異なる精神構造をしていたとしても、トラウマが癒えるにしては早すぎるように思います。

初めて長時間の別行動をしたのは部活動を始めた時で、その時、夏生はサルベージ屋の仕事に行っています。
 アトリが学校で夏生と別れる時、夏生のことを心配するものの、傍を離れることを嫌がるそぶりは全くなかったように見えます。

勉強をするのも、作業の手伝いをするのも、料理を覚えるのも、料理を作るのも、どれもアトリが有用性を獲得したり示したりすることを目的とした行為ということに違いはありません。

傍を離れることを嫌がっていた時と、この時とで、何が変わったでしょうか?
 夏生の雰囲気が柔らかくなったという変化がありました。

託された役割とその終わり

詩菜から託された役割だったから、夏生のことを見守るために傍にいたかった、というのが傍を離れることを嫌がっていた理由として考えられます。
 さらには、離れるのを嫌がっていた時期の夏生は、まだ町に溶け込むこともできておらずどこか張りつめたような雰囲気もあって、自分が守らなきゃという使命感を強く持たざるを得ないような状態だったことも強く影響していたのでしょう。

そこから夏生は自らの力でことを成し遂げ、周囲の人たちに認められて、心に余裕ができて平穏な日々を送ることができるようになります。
 見守る側から見ると、常に張り付いていないと何があるか分からないような状況から脱して、安心できる状態になったのだと思います。

このアトリの行動の変化は、親としての役割を終えたことを示しているのではないかと思います。

ここから先のストーリーでは2人で対等な関係を築いていく関係性になることもあり、そのために親としての役割はどこかで区切りをむかえておく必要があったのだと思います。
 とはいえ、これ以降でもアトリが夏生を子ども扱いする場面があるので、「親の役割を終えた」説も弱いような気がします。

心の寄る辺

孤独で不安な信念

マスターの役に立つために生み出された存在であり、マスターの役に立つことが存在意義だというのに、30年ほど前の学校での事件で詩菜から拒絶されて以来、アトリは長期間にわたってマスター不在も同然の状態になっていました。

それでもマスターの役に立ちたい。
アトリは自発的に行動を開始します。

自由に生きろと命じられた掃除ロボットの例だと「マスターの役に立つために生まれた・掃除をするのが役割」という自己認識から、自発的にマスターのために掃除を始めたような状態ですね。

詩菜に拒絶されてから夏生とガケの上で出逢うまでの20年近く、「マスターの命令」という自分の行動の正しさを保証してくれるものが一切ない状態で、アトリは自分の意志だけを頼りにずっと行動し続けてきました。
 自分の行動の正しさが自分自身では分からない、とても大きな不安を抱え続けていたのだと思います。

23年ぶりの安心できる居場所

アトリをサルベージしてすぐに、アトリが夏生の傍にいたがるのは長期間のマスターの不在による不安ではないかと夏生は考えています。
 この時の夏生の視点では、アトリが海の底で眠っていた数年間のマスター不在期間なのですが、実際はアトリは意識のある状態のまま23年もの間マスター不在の期間を過ごしていました。
(発売が33年前で倉庫で眠っていたのが8年なので稼働期間は25年、耐用年数が25年で今が25年目なのでアトリは発売年の生まれであることが分かります。発売からあの事件までが2年なので、アトリが意識のある状態で過ごしたマスター不在期間は23年)

最初は、新しいマスターである夏生に出逢えた安心と、夏生が自分を受け入れてくれるかが分からない不安と、夏生を見守るという詩菜から託された役目を果たす使命感とが混ざって、夏生の傍から離れるのを嫌がっていたのだと思います。
 また、受け入れられなかったら回収・廃棄される恐怖もあったのだと思います。

学校に明かりが灯り、夏生はアトリを受け入れてくれて、夏生もアトリもともに周囲との関係良好。
 夏生もアトリもようやく自分の居場所を見つけることができたという安心感が、離れて行動できるようになった理由なのかもしれません。

日付関係で気になったこと

重箱の隅のような何かのようでいて、シナリオに関わる重要な要素です。

初回プレイ時は特に意識しないで読み進めていたのですが、この記事を書くためにメモしながら2周目をプレイしていて日付について気になったことがあります。

土日は週末ではない?

夏生がアトリをサルベージした日は07/18(土)、水菜萌は学校に通います。
その次の日、夏生が初登校した日は07/19(日)、普通に授業をやっています。
他にも、部活を始めたのが08/02(日)、期末テストの最終日が推定08/23(日)。
つまり、土日でも普通に学校があって授業をやっています。

その一方で、海底ケーブルを発見しエデンと初遭遇した時のサルベージ屋の仕事をしたのは週末で学校は休みだと書かれています。週末は学校は休みなのです。
 この週末が仮に土日の事だとすると推定08/08(土)~09(日)の出来事だと言えるのですが、しかし土日でも普通に学校をやっていたことを考えるとこの週末というのが土日であると断言できません。

初デートの日はカレンダーの08/13(木)にバツを付けていたので、この日は08/14(金)であると分かりますが、金曜日なのに休日だと明言されています。

この世界の曜日感覚がよくわからないです……。

期末テストの最終日を08/23(日)と推定した根拠

テスト最終日のその日に船を出してエデンを探しに行きます。
翌日の夜明けにエデンと遭遇、上陸。
その翌日に中央管理室に到達し、その後脱出の際にログを紛失。
日付が変わって、紛失したログの代わりのノートを買います。
その翌日にカレンダーの08/26(水)にバツを付けているので、この日は08/27(木)。

エデンから脱出してきてからログ用のノートを買うまでにどれくらいの時間経過があったかが明示されていませんが、ログを付けることはアトリの毎日の日課なので、脱出の次の日にノートを買いに行ったと考えるのが自然だと思います。

すると、ノート購入が08/26(水)、脱出が08/25(火)、上陸が08/24(月)、出港が08/23(日)となるため、テスト最終日も08/23(日)ということになります。
 日曜日に学校がやっていることは、普通に考えたら引っかかりを感じる部分ではあると思いますが、この作品はゲーム開始して最初の2日が土日なのに普通に学校やっていたので、この作品世界では不自然なことではないのでしょう。

08/26(水)にバツを付けるシーン

アトリは毎日の日課としてカレンダーの「昨日の日付」にバツを付けているのですが、学校占拠事件が起こる日の朝、地の文では「今日の日付」にバツとあり、08/26(水)にバツが付きます。

アトリの記憶の欠落が進行して明らかに様子がおかしい描写がある中での出来事だったので、昨日の日付にバツではなくて間違えて今日の日付にバツを付けたと解釈するのが自然な文章だと思いました。

しかし、その後の地の文で残り5日と書かれているので、この日は08/27(木)、そうすると「今日の(日課として昨日の)日付にバツ」と解釈するのが正しそうです。

ロケットの打ち上げ日

実際は08/31(月)にロケットが打ち上げられます。

学校でロケットが話題になった08/16(日)に16日後とあり、その計算だと09/01(火)になってしまいます。

お別れ会があった08/29(土)には3日後とあり、やはり09/01(火)の計算です。
 同日、お別れ会から住居に戻ってからのシーンでは2日後と書かれていて、こちらだと08/31(月)の計算です。

1日も休まずログを付けていた

エデンへの上陸・脱出でログを紛失した際に、アトリはサルベージしてもらってから1日も欠かすことなくログを付けていたと言います。

アトリをサルベージしたのが08/18(土)でログ用のノートを買ったのが08/20(月)なので、2日だけその日の夜にログを付けていないハズの日があります。
 作中では明示されていないですが、書けなかった分は後日書いても問題ないと思うので18、19の分は20日にまとめて書いたのかもしれません。

あるいは別の紙に書いていたのかもしれませんが、ノートを買いに行く日の朝にわざわざ「紙と書く物をお借りしてもいいですか?」と聞いているくらいなので、ノートを買うまではログも書いていなかったのだと思います。

「わたしが喜ぶ事ができたら、マスターは救われます」のマスターって誰?

何が君の救いになるの?

ガケの上で出逢った時にアトリが救いを求めていると感じた夏生は問います。
「何が君の救いになるの?」
それに対するアトリの返答は、
「わたしに“喜び”を教えてください」
「わたしが喜ぶ事ができたら、マスターは救われます」

喜びを知ることそのものがアトリの救いではなくて、アトリが喜びを知ることでマスターが救われ、マスターが救われることでアトリが救われる、という構造になっていると私は考えています。

作中でアトリは「わたしはわたしの有用性を示したい」と言っているように、ヒトの役に立つことがアトリの存在意義であり役目であり、そこにアトリの喜びがあるとアトリ自身が考えているのだと思っています。
 そのため、ヒトの役に立つことを通してアトリは救われる。

とはいえ、喜びを知りたいという想い自体は本心からの願いでもあると思います。
 この時点ではアトリは自分には心がないという自己認識で、しかし本当は心を持っている。
 だから論理的な思考ではマスターを救うための手段として喜びを教えて欲しいと言ったけれど、感情は自身の絶望を癒すための喜びを欲していた、というような状態だったのではないかと思います。

さて、ここからが本題、このマスターは具体的には誰を指しているのでしょうか?

候補は2人しかいないのですが、そのどちらでも意味が通るように思います。
 メタな視点から考えると、もしかすると、どちらとも解釈できることを意図して「マスター」という具体的なようで抽象的な言葉を選んだのかもしれません。

「マスター=詩菜」と解釈した場合

マスターの権限を委譲すると詩菜から告げられた場面では、詩菜が指し示す先にはアトリひとりしかいない状況でした。
 アトリの昔のログからも、ガケの上で出逢った少年が権限を譲られた新しいマスターその人であるという確証が持てない状態であったことが分かります。
 そのため、ここで明確に「マスター」と言った場合はまだ詩菜のことを指していると解釈することが可能です。

詩菜の未練はアトリと仲直りしてまた友達になることでした。
 また友達になって、今度こそ2人で喜びを分かち合える日々を送ることが最後の望みだったのではないかと思います。

すでに亡くなっている人ではあるけど、せめて自分だけでも詩菜が望んだ喜びを知ることができたのなら、詩菜の魂は救われると考えたのかもしれません。

「マスター=夏生」と解釈した場合

詩菜がマスターの権限を自分の子供に委譲すると告げたことも、その後詩菜は息を引き取ったこともアトリは認識している状態です。
 アトリの昔のログには、ガケの上で出逢った夏生の自殺を止めようとしたのは三原則による人命優先ではなく詩菜からの命令だからと書かれています。
 アトリは詩菜をずっと陰から見守り続けていたのだから、確証まではないものの、目の前にいる少年こそが新しいマスターある可能性が高いと判断できていたと考えることができます。
 そのため、ここでのマスターは夏生を指していると解釈することも可能です。

この時点ではアトリは自分には心がないという認識だったハズなので、“喜び”を教えてもらってもそれを感じる器官を持ち合わせていないことを承知した上での発言だったのではないかと思います。

つまり、あれは夏生の自死をやめさせるために今自分ができることを考えた結果の発言だったのではないでしょうか?
 アトリは、夏生がアトリのことを救おうとしてくれることで夏生の気持ちが前に向くように導こうとしたのかもしれません。

アトリの性格について

加筆分

幼い日の夏生があのガケの上で出逢った時のアトリの話し方は、今のアトリが心があるフリをするなと言われた時の話し方と同じように感じます。詩菜の最期を看取ったシーンでの話し方も同様であり、また、アトリの過去・現在のログの文体からもこの話し方と同じ印象を受けます。

つまりはこの無感情な感じがアトリの元々の性格ではないかと、ふと思ったので考えてみました。

アトリの元々の性格

作中の事実として、アトリが笑顔を浮かべることを学習したのはガケの上で夏生と出逢った時でした。
 おそらくは、詩菜がアトリと共に過ごしていた時は、アトリはずっと無表情で無感情な感じだったのではないでしょうか?
 とすると、詩菜が感じていたであろう、楽しいことや嬉しいことを分かち合えないもどかしさがより理解できるような気がします。

サルベージされた時のアトリは、ちょっとドジだけど明るく天真爛漫な性格でした。
 ガケの上で無表情で無感情なアトリと出逢ってからサルベージされて明るく天真爛漫なアトリと再開するまでに、アトリの主観では2週間しか経っていません。
 アトリの昔のログを見ても、乃音子に拾われて眠りについたくらいしかその期間での出来事は記録されておらず、その期間にアトリの性格が大きく変わるような出来事があったとは考えにくいです。

その期間内で今のアトリの性格につながりそうな要素としては、当時の夏生から学習した笑顔くらいしかないように思います。
 少なくとも、周りからは変わり者だと言われ、アトリからは嫌味なババアと言われている乃音子から学習してもあの性格にはならないと思うのです。

とすると、ガケの上で出逢った時は実はアトリは明るい性格だったのだけど、心が絶望に飲まれていたことで明るく天真爛漫な性格が隠れて無感情な性格のように見えたということなのでしょうか?

しかし、アトリが元々あの明るい性格だったとすると、詩菜がアトリと感情を共有できないもどかしさを抱えていたという事実と整合性がないように思うのです。

アトリのシリーズの性格設定

アトリのシリーズは愛嬌が強い武器となって異例のヒット商品となったという記述もあります。
 そうすると、明るく天真爛漫なあの性格のほうが、アトリのシリーズとしてはデフォルトの性格なのでしょうか?

あるいは、あのシリーズの元々の性格はみんな無感情なあの感じだけど、いくつか用意されている性格パターンから好きなものを選べたのかもしれません。
 明るく天真爛漫なあの性格パターンが人気の性格でヒットした要因だったけど、乃音子は選ぶのが面倒だったのでデフォルトの性格のままにしていたとか。

どこまでがシリーズに共通した部分でどの部分がアトリだけの特別な部分なのかは明確には分かりませんが、少なくとも、シリーズの個体の中でアトリは他とは異なった特別な個体であるという事実があります。
 心があるというのがまさにそれで、家事が苦手なのもシリーズの中でアトリだけだとアトリ自身が証言する場面もあります。

ならば、やはり少なくともアトリは無感情な性格が元々の性格だったのではないかと思うのです。

今の明るい性格の由来

心がないと判断されれば廃棄されてしまうので、自衛のために意図的に心があるようにふるまわなければならなかった出来事がありました。
 学校で事件を起こしてメーカーに回収され、調査・検査を受けていた時がそうであると私は解釈しています。

この時に、アトリはあの明るい性格でふるまっていたのではないかと考えています。
 無感情な元々の性格だと心があると判断される可能性が低くなりそうですが、あの明るい性格であれば心があると判断される可能性が高くなりそうだと考えることができるからです。

しかし、あの明るい性格がアトリのシリーズの元々の性格だったり元々用意されている性格パターンのひとつであったとしたら、アトリの製作者に対して、アトリに心があると判断させる可能性を高める効果はあまり期待できないようにも思います。
 制作者にとって既知の性格パターンの通りのふるまいをするよりも、未知の性格パターンのふるまいをしたほうが、心があると判断される可能性がより高いハズです。
 なので、あの明るい性格は製作者によって元々用意されていた性格なのではなく、学習によってアトリ自らが作り出した性格なのではないかと思うのです。

ならば、あの明るく天真爛漫な性格はどこから学習したのか?
アトリが共に過ごした詩菜からではないでしょうか?

とは言え、この時点ではまだ表情を獲得してはいなかったハズなので、言動に対して表情のバランスが取れていない状態だったのではないかと思います。
 それがある種の不気味さを発生させてしまい、調査・検査がアトリにとって望ましい結果につながりにくい要因となっていたのかもしれません。

望まれた性格

自衛のためにそうしていたのとは別に、もうひとつ、今のアトリがあの性格でふるまう大きな理由があると考えています。
 それは、2人のヒトがそう望んでいるとアトリが認識していると考えられるからです。

ひとりは詩菜。最期の時に夏生のことを「私の代わりに見守ってあげて」とアトリに託しており、アトリは詩菜の代わりとなるために、夏生の前では詩菜から学習した明るく天真爛漫なあの性格でふるまう動機になっています。
 「私の代わり」と言っても、母親としての詩菜ではなくて少女としての詩菜の性格を模しているように思いますが、共に過ごして学習データを持っていたのが少女としての詩菜の性格のほうだったからなのでしょう。

もうひとりは夏生。ガケの上で初めて出会った時に夏生は母親に対する思いをアトリに語っていて、これによって、夏生は母親を求めているとアトリは解釈していたのかもしれません。
 そして、サルベージされた時に、詩菜から託された「この子」が夏生であるとアトリの中で明確に結びつき、夏生に対して母親(=詩菜から学習した性格)としてふるまおうとしたのだろうと思います。

2人の想いが重なったことで、アトリのあの明るく天真爛漫な性格が生まれたのかもしれません。

今のアトリの自然体

望まれたから明るい性格であるかのようにふるまっている。
 ならば、今のあの明るく天真爛漫な性格は実は偽物の性格で、今のアトリの素の性格は無感情な性格のままなのかというと、そうではないように思います。

心がないことを隠そうとしていた時のアトリであれば、確かにそうだったかもしれません。
 しかし、心を自覚してからのアトリも、明るく天真爛漫な性格をしているようにふるまっていることから、心を自覚してからのアトリにとってはこれこそが今の自分の性格であると認識しているのではないかと思うのです。

加筆後の加筆(ここから)
感情があるふりをするなと夏生から言われてからも、寝ぼけていたり寝言でのアトリは明るく天真爛漫な性格のアトリのままに見えます。
 このことからも、やはり明るく天真爛漫な性格は意識的に演じてはいない素の性格であると見なせるのではないでしょうか?
加筆後の加筆(ここまで)

元は学習によって得た表面上の性格だったとしても、そうふるまっている内に、いつしかそれが本当の性格になっていた。
 それはヒトにだってあり得ることではないでしょうか?

あるいは、単に猫をかぶっている状態なだけなのかもしれませんが、それこそヒトだって、それが割と普通な姿ではないでしょうか?

自衛のため必要に迫られてその性格であるかのようにふるまっていたのが、いつしか、自身の自然な性格として身に付いていた。

これもまた、あの3人を結ぶ縁のひとつの形なのかもしれません。

心に気付いた人たち

小西先生がアトリに心があることに気付いていたのでは? という考察を読んだ後にふと思ったこと。

先生は気付いていたハズ

心がないと廃棄処分

夏生がアトリのログを盗み見た後のアトリとの問答で、アトリは自身が心を持っているかのようにふるまっていた理由を「心がないと判断されれば廃棄処分にされてしまう」からだと答えます。
 夏生はそれに対して「そんなことするハズないだろう」と返しますが、このアトリの発言は夏生がアトリを廃棄処分するという意味ではなく、夏生がアトリを手放した後に回収されて廃棄処分されるという意味ではないかと思いました。

アトリは一度は回収されて廃棄処分を待つ身となったことがありましたが、その時の経験から出た発言なのかもしれません。

調査・検査

事件を起こした個体であるアトリよりも先に他の姉妹たちの廃棄処分が実行されたのは、ログに書かれている調査・検査がそれだけ長引いていたからではないかと思います。
 事件の原因究明のためであれば調査のみで良いように思います。この検査はアトリに心があることを客観的事実として証明するための検査だったのではないでしょうか?

アトリに心があるのではないかと気付いたヒトがいて、それを証明するために調査・検査していた。そして、それによって廃棄処分が実行されずにいることをアトリ自身も認識していたのだと思います。

もしかすると、事件を起こした張本人であるアトリが脱走することができたのは、先生の手引きがあったからなのかもしれません。
 心があることを証明するための調査・検査では客観的に証明することができそうになく、しかし先生自身はアトリに心があることを確信していたとしたら……

ヤスダも実は気付いていた?

結末に合わせて事実を変えてしまったのでは

先生の弟子であるヤスダもまた、アトリに心があるのではと気付いていた可能性があるのではないかと思います。
 少なくとも、アトリに対する調査・検査に直接関わっていて、先生の見解を直接聞いていた可能性が高い立場にいたハズです。

アトリの心に先生が気付くことは妥当な流れだと思います。
 日々を共に過ごした夏生も気付きました。
 それどころか、夏生から見て気難しく子供嫌いで自分の研究にしか関心のないという乃音子ですら気付いたのです。
 先生の弟子であるヤスダが気付いていなかったというのも、それはそれで不自然だと思うのです。

しかし、アトリに心を宿すという偉大な業績を残したハズの先生は、正しく評価されることなく無念な最期を迎えてしまった。
 本当にアトリに心があったなら、先生がこんな最期を遂げるハズがない。

アトリに心があることを気付いてはいたけれど、先生への思いの強さゆえに自分をだまして妄執にとらわれてしまい、ヤスダにとってはアトリの心なんてあってはならないモノとなってしまったのではないでしょうか。

なんでアトリをなぶるようなことをしたのか?

暴走ロボットを駆除しに来たという割には、ヤスダはアトリに対してあまりに無防備だし無警戒だったように思います。
 ロボットに対して非常に効果を発揮するスタンガンという武器を装備しているものの、ヒトに害をなす危険な相手と対峙するという割には、自分の命が危険にさらされるかもしれないという危機感とか緊張感があまりに感じられないのです。

危険な暴走ロボットを確実に破壊することが目的であるなら、最初の不意打ちの際にスタンガンを使う以外の選択肢はなかったハズなのです。

乃音子はヒトに危害を加えたアトリを獣に例えていますが、現実世界で危険な獣と対峙しようとする場面を考えてみてください。
 人に害をなした獣を駆除しようという時にあそこまで無防備なままであんなに無警戒に獣に近付く・近付かせることは普通じゃ考えられないと思います。
 それどころか、ヤスダは手負いの獣をなぶるようなことすらしています。

相手が自分を襲えない確信を持っているか、襲われても自分なら対処できると相手をなめているか、単に何も考えてないだけなのか、思いつく理由としてはこんな感じでしょうか。

三原則があるからヒトを襲わない確信があった? ヒトに危害を加えたから回収・廃棄しに来たハズです。

大人で武装もしている自分なら襲われても対処できると思っていた? アトリのスペックを熟知しているであろうヤスダが、アトリはヒトを上回る出力が出せることを知っていながら甘く見るなんて考えにくいです。

アトリを回収するために知的な策を複数用意できるだけの頭の良さを持っているハズなのに、実際にアトリと対峙した時のヤスダからは用意周到な印象をあまり受けません。

後に夏生がヤスダの行いを暴走と表現しているように、30年ほどの長期にわたって憎しみを抱き続けたヤスダは冷静なままではいられなかったのでしょう。

しかし、実は、アトリの心に気付いていたからこそ、詰めの甘さを残していたのだとすると……。そんなifを考えることだってできるのではないでしょうか。

現実を見て、事実を正しく認識

最終的にヤスダは、アトリが感情のままに涙を流す姿を、プログラムには無いハズの行動をしているのを見て、アトリに心があるのだと考えを改めたように見受けられます。
 心を否定していたヤスダであればこれもプログラムのエラーだと言いそうな気がするので、アトリが涙を流す姿を実際に目の当たりにした影響ももちろん小さくはないと思いますが、やはりどこかで心があるという思いも持っていたのではないでしょうか。

まあ、これはあくまでただの駄文でしかなくて、こう考えることもできると私は思う、程度の意味しかありません。

ヤスダ自身は天才ではなく良くて勉強ができる秀才タイプのような気がするので、本物の天才である先生に師事していながら本当にアトリの心に気付いていなかった、という可能性のほうが高いような気もします。

アトリと夏生の力のみでヤスダの思想を改心されることができたのなら、そちらのほうがよほどドラマチックな展開ではあります。

アトリに心が宿ったのはいつだったのか?

加筆後の加筆

アトリが約30年前に暴行事件を起こす前の段階、立ち入りが禁止されている学校に向かう判断をした時点で心があることによってルールを破ったと考えることができるため、客観的な事実としては少なくともこの時点でもうすでに心があったと見なすことができます。

では、実際にアトリに心が宿ったのはいつだったのでしょうか?

アトリと同じシリーズの他の皆は優秀だったけどアトリだけ家事が苦手、というアトリ自身の証言から、アトリだけが初期不良がある個体の可能性が高いと考えられます。
 この初期不良が、アトリにだけ心が宿ったことと関係しているのではないか、アトリという個体が生まれた時(ボディにプログラムがインストールされたその時)から心があったのではないかと私は思っています。

他の姉妹たちについての作中での言及とアトリ自身の言動などから、なんとなくそうなんじゃないかなと思っているというくらいの感じなので、明確な根拠がある訳ではないですが……。

他の姉妹たちは心を宿していたのか?

夏生はアトリのシリーズの他の姉妹たちにも心が宿る可能性があったと言っています。
 アトリのシリーズは皆ソフト・ハードを合わせたスペック的には心が宿る可能性を持ってはいたけど、(おそらくは)ソフト的な初期不良という偶発的な要素の違いによってアトリのみが心を宿すことができたのではないかと思います。

60年後の世界でもヒューマノイドに心を宿す研究が続けられているようですが、アトリのことを「心を持った、今現在に至るまで唯一のロボット」と言っていることから、心を宿す再現は成功していないように見受けられます。
 アトリが心を宿したのは偶発的な初期不良が関係していたために単にアトリのシリーズを復元しただけでは心を宿すことはできず、心を宿すことは困難なままなのではないでしょうか?

他の姉妹たちは心が宿る可能性を持ってはいたものの、ソフトもハードも仕様の通りのスペックであったがために心を宿すことがなかったのだろうと思っています。
 姉妹たちの廃棄は大量殺戮ではなかったと考えることができ、それは悲劇の中のせめてもの救いになっているように思います。

とは言え、私のこの考えはアトリが心を宿したのは初期不良が関係しているということが前提にあります。
 姉妹たちに心が宿る可能性があったことは否定できないし、実際に心を宿した個体が他にもいた可能性も否定できません。姉妹たちの廃棄は大量殺戮ではなかったというのは、あくまでそうだったならという私の願望でしかありません。

他の皆さんは優秀だというアトリの証言があるけど、アトリはそれをどうやって知ったのか?

初期不良のあるアトリが出荷されたという作中の事実から、出荷時の検査に合格していても家事が優秀であることは保証されないと考えられます。(ヤマサキファクトリーの品質保証はどうなっているんだろうか?)

つまり、出荷時には他の皆さんが優秀であると言えるだけの根拠はなかったハズで、出荷されてからのどこかでアトリは自分は家事が苦手だけど他の姉妹たちは優秀であることを知ったハズです。

学校で事件を起こしメーカーに回収されて調査・検査を受けている時に、アトリはこれを知ったのだと思います。
 アトリのシリーズの他のヒューマノイドそのものと一緒に彼女たちのログも回収され、それらの記録をメーカーが確認した結果、アトリだけ家事が苦手で他の姉妹たちは優秀だったという事実が発覚したのでしょう。

おそらくは、メーカーは事件後に回収して初めてアトリが初期不良のある個体であることを認識したのではないでしょうか?
 そうすると、初期不良が事件に関係している可能性を考えるでしょうから、なぜ事件に至ったのかと関連してなぜ初期不良が発生したのかについても調査・検査を行ったのだと思います。

ココロとはどんなヒューマノイドなのか?

加筆分

AI技術の発展と関係があるハズ

60年後の世界において、夏生の功績としてフロート都市移住構想の実用化ともうひとつ、ロボットAI技術の発展が挙げられています。
 この60年後の世界では、ココロと名付けられた、夏生が作ったというヒューマノイドが登場します。一見すると夏生の介護ロボットのように見えますが、ただの介護ロボットという訳でもないように思います。

ココロは、夏生が発展させたというそのロボットAI技術を搭載しているヒューマノイドなのではないかと思っています。

「ロボットを労働力ではなく人類の友人として受け入れる事で世界を一変させる技術革命が始まった」という記述があり、おそらくは、この技術革命というのが夏生が発展させたロボットAI技術と関係がある出来事だと考えられます。

ココロという名前、友人としてのロボット、夏生はヒューマノイドに心を宿すための研究をしていたのではないでしょうか?
 そして、ココロはその研究においての実験機だったのではないかと思います。

しかし、「ロボットが心を持っているか否かの議論は今でも続けられている」や、アトリのことを「心を持った、今現在に至るまで唯一のロボット」と言っている記述があることから、技術は発展させたものの、残念ながら心を宿すまでには至っていない状況なのでしょう。

実際に、ココロの話し方を聞いた感じでは、心がないことを意識している時のアトリの話し方と似た印象を受けるので、ココロが元からそのような性格でないなら、ココロもまた心を持っていないように思います。

特製のヒューマノイド

「人類の友人」とまで表現しているということは、義務付けられていたヒューマノイドの脳の寿命設定は60年後のこの世界では撤廃されているのではないかと思います。
 少なくとも、寿命直前のアトリと共に過ごした夏生が、この義務をそのままにして心を宿す研究をするとは思えないのです。

この義務を無くすには相応の大きな出来事が必要だと思うので、「世界を一変させる技術革命」というのがそうだったのか、あるいはその革命で行われた・行われていることのひとつがこの義務の撤廃なのかもしれません。
 仮にまだ義務が残っていたとしても、違法を承知でココロには寿命を設定していないように思います。

ココロは、ポンコツと呼ばれることに対しては警告を発する一方で、夏生がエデンに違法にアクセスすることを咎めるどころか補助しています。
 このことから、全ての違法な行為を杓子定規に咎めるのではなく何らかの判断基準によって場合によっては容認するという思考ができているように見えます。

少なくともココロは、この時間軸において一般に出回っているようなヒューマノイドとは異なり、夏生が特別な目的のために特別に作ったヒューマノイドであることは間違いないように思います。

死に目ですら水菜萌以外の家族がいない部屋

加筆後の加筆

ATRI -My Dear Moments- 備忘録
こちらの記事を拝見して考えたこと。

60年後のシーンでは夏生はいつ死んでもおかしくないような状態であり、まさにこれから最期の時を迎えようとしていた訳ですが、その夏生の傍にいたのは妻の水菜萌とヒューマノイドのココロだけでした。

夏生と水菜萌の間に子供が生まれていて孫もいると分かる記述があるため他にも家族がいるハズで、死に目ですら他の家族が現れないのは家族仲が悪かったからではないかという解釈が成り立つ訳です。

しかし、私はそれとは異なる解釈をしました。

他の家族がいなかった理由

この時の夏生はいつ死んでもおかしくない状態になりながらも、秘密の計画を胸に秘めてこの日が来ることを待ち望んでいました。
 秘密の計画を知らないヒトから見れば、いつ死んでもおかしくはないけど、いつ死ぬかは分からない状態が数年間続いていたのです。

死にそうだけどいつ死ぬか分からない身内がいる状態というのが、夏生の家族にとってはいつもの日常であり、家族全員が常に夏生の傍にいるなんてことはなかったのではないかと思うのです。
 家族全員に見送られながら旅立つというのはドラマチックではあります。しかし、急病で病院に運ばれたとか闘病の末に容態が急変してとかであるなら、何が何でも家族そろって傍にいようとなる可能性が高いように思いますが、長期にわたる闘病生活の最中であり急変などの分かりやすいシグナルも出ていない状態では家族全員を急遽呼び集めるなんてことにはならないのではと思います。

このような理由で家族全員がそろっていなくても不自然ではないと考えることができるのですが、この時に夏生以外のヒトが水菜萌だけだったのはもっと大きな理由があると思っています。
 このシーンで夏生は、意図的に水菜萌以外のヒトをシャットアウトしていたのではないでしょうか?

よろしくない行為の現場

エデンへのアクセスは違法行為であり、これからその違法行為をやろうとしている現場な訳です。家族そろって違法行為を見届けようなんて普通じゃないですし、直接的に関係のないヒトはシャットアウトするのが当然なハズです。

さらに、夏生とアトリの関係について夏生と水菜萌の2人は納得していたとしても、妻である水菜萌から離れて残り僅かな命を振り絞ってでもアトリに会いに行くという状況は一般的な感性からするとまさにこれから不倫の逢瀬に行くようなものだと受け止められかねません。
 相手はロボットな訳ですが、「友としてのロボット」という技術革命に貢献した夏生がそのような行動をしようとしているのだから、普通のヒトよりもはるかに、そこに大きな感情が込められていると見なされてもおかしくありません。
 そんなところを水菜萌以外の家族に見せるわけにはいかないと考えるのもまた、普通の感性ではないでしょうか?
(仮にココロに心があったとしたら、このシーンはココロにとっては父親を不倫に送り出す娘の立場になり得たとも解釈できそうで、だから結果的にココロに心がなくて良かったと言える?)

そんな法的・倫理的によろしくない現場なんて事情を知るヒト以外に見せる訳にはいかないハズで、だからあの場にいるヒトは水菜萌だけだったんじゃないかと思うのです。

また、医者とか病床といった言葉が出てくるので病室を連想しやすいと思いますが、同じ理由で、たぶんこのシーンの場所は病院ではなく夏生の自宅ではないかと思っています。
 何年もかけて準備して機会を待っていた絶対に失敗できない計画を実行する場所であり、まだ一般的ではない電脳化した脳をネットワークに接続するなら専用の設備が必要なハズです。邪魔が入る恐れのないプライベートな場所で実行するのが自然だと思うのです。

家族との仲はどうだったのか?

夏生は集中すると周りが見えなくなるヒトであることは作中でも描かれていて、その父親も祖母も研究のために他を犠牲にする傾向が強いことも描かれています。
 目標のために家族をないがしろにしがちな血筋と言うことができ、当然ながら夏生もまたその性質を持っているのは間違いないでしょう。

そして、アトリを救うという、夏生にとっては生涯をかけるに値する大きな目標がある状態なので、他の事には意識を向けなかった60年間だった可能性もあり得ます。

これだけを見ると、夏生は祖母や父親と同じく家族との仲は良くはなかったのでは? とも考えられるかもしれませんが、実際はそこまで悪くはなかったのではないかと思っています。

かつてアカデミーにいた頃の全てを一人で抱え込もうとするプライドの塊のような夏生だったのならまだしも、アトリや町の仲間たちと過ごしてヒトに頼ること・ヒトに頼られることでより大きなことを成し遂げられると学んだ夏生なら、他人への思いやりをないがしろにするようなことはしないハズだと思うのです。

また、夏生が家族をないがしろにするようなヒトになってしまうなんてことをアトリが望むハズがないし、アトリから想いを託された水菜萌がそれを許すハズもないと思うのです。

あの場面に水菜萌がいるということ自体が、60年間ずっと、アトリから託され水菜萌が支えると決めたあの時の夏生のままでいたことを表しているのではないでしょうか?

オープニングテーマ「光放て!」の光とは何か?

人には光が必要

作中に登場する「光」

最初は直接的に、学校に灯した光や町に灯した光を意味しているのではないかと思っていました。
 オープニングテーマが作品全体を俯瞰した視点のものであったとしたら、作中の出来事と関連しているのが妥当と考えたためです。

しかし、ここで改めて歌詞を眺めてみると「空に描く道標」はロケットで「夜を照らす道標」は発電した光を表しているように思います。
 そうすると、発電によって灯した直接的な意味での光に対応した言葉は「夜を照らす道標」としてすでにあるのです。

そのため、曲のタイトルやサビにある「光」は直接的な光とは異なり、概念的にもっとスケールの大きい何かであるほうが妥当ではないかと考え直しました。

光=希望、ではその希望とは何か?

作中で何度か「ヒトには光が必要」というメッセージが登場します。
 これはヒトには生きるための希望が必要という意味であり、それならばこの曲の光もまた生きるための希望であると解釈するのが妥当ではないかと思います。

トゥルーエンドでアトリの元へ還ってから流れる「光放て!」を聴いて、アトリの元へと向かう夏生の想いを歌っていることに気付き、さらにサントラの楽曲解説を読んでおそらくは歌詞全体がそのような想いで作られていることを知り、それならここでの光もまたアトリの元に到達するまでに登場するある程度具体的な何かではないかと思いました。

アトリの元に到達するまでの範囲で、ヒトにとって大きな希望とは何だったか?
 夏生が地球を救うことこそがここでの光の意味ではないでしょうか。

作中世界の多くのヒトにとってはこの解釈はここでお終いでも問題ないでしょうが、これは夏生とアトリの2人の物語です。2人にとっての「地球を救う」ことの意味を考えてみます。

ボクは地球を救わなきゃいけないんだ

じゃなきゃ、ボクは救われない

アトリと出逢った時の夏生の地球を救うという決意は自らの心を救うためのもので、心が壊れるのを防ぐための代替行為でしかなく、つまり、夏生が最終的に救われるのなら必ずしも地球を救う必要がないのです。

もともと優秀だった夏生はエリート教育機関であるアカデミーに入り、地球を救うために勉強を重ねますが、勉強すればするほどに地球を救う方法なんてないのだと理解させられてしまいます。
 そして自分が何もなせないまま無価値な存在であると思い知らされることを恐れてアカデミーから逃げ出します。
 地球を救う事を諦めてしまったのです。

終わりまでの間を、どのように過ごすか

今の夏生がアトリと出逢い、アトリとの日常に心を満たされて自分は救われたと認識しますが、実際はただ滅びを受け入れてそれまでの時間を穏やかな気持ちで過ごすことにしただけでした。
 そんな夏生に対して、アトリは「今のあなたは嫌い」だと言います。

その救いは夏生にとっての幸福ではないとも言っています。
 今に満足して未来を諦めた先には滅びしかない、それは幸福と言えるのか? という問いも作中でなされています。

アトリは滅びが待ち受けているかりそめの幸せではなく、未来に渡って夏生が幸福であり続けて欲しいと願っているのだと思います。
 そういった未来の可能性を絶やさないために、地球を救わなければいけない。

しかし、夏生はアカデミーから逃げ出した時の恐怖に加えて、アトリのいない未来を生きることへの恐れから、余計に未来への希望が持てない状態になってしまいます。
 アトリのお別れ会から住居に戻ってきた段階でもまだ、未来が見えていない状態でした。

未来を諦めたくない

一方で、アトリは残された少ない時間を“喜び”のために使うことを決断します。
 エデンの管理者となって皆を喜ばせて、自分も一緒に喜びたい。
 人類の未来への光を灯すことをアトリは選択しました。

そして、エデンに再上陸してアトリと過ごす最後の時間で、夏生も決意を新たにします。
 今度こそアトリを救う、そのために地球を救うと。

ロケットが飛んだことで、あの日の夏生は救われました。
 この町の学校で、誰かの力を借りて事をなすことを学びました。
 祖母の研究から、自分が考えてもいなかったような地球を救う方法があることに気付かされました。
 アトリから、前に進むための勇気をもらいました。

自身の心が壊れないようにするための代替行為から、アトリを救うための手段へと、夏生にとって、地球を救うことの意味が変わりました。

地球にわたしも含まれますか?

わたしと約束してくださいました

夏生が幼いころにあのガケの上で出逢うより前のアトリは、大好きな詩菜から拒絶された状態のまま20年ほどの時を過ごし、仲直りできないまま詩菜との別れを経験しました。
 仕えるべき主を、存在意義を失った絶望の中で、あの日、あのガケの上で自死を思いとどまらせようとしてくれた夏生に救いを求めました。

地球にわたしも含まれますか?
 夏生のあの決意に対するアトリのこの問いは、アトリの視点では私を救ってくださいと言う約束のようなものだったのではないでしょうか?

月日が流れアトリは夏生と再会を果たしますが、しかし、夏生は地球を救うことを諦めていました。
 今のかりそめの幸せに満足し、未来への希望がなく、アトリとの約束も果たせそうにない。
 だから、アトリはそんな夏生に対して「今のあなたは嫌い」だと言ったのだと思います。

わたしとはなんなのでしょう

夏生は地球を救うのは諦めてもアトリは救うつもりでいると言い、そのためにアトリが受けた“最後の命令”を探そうとします。
 最後の命令を実行することがアトリの望みであるため、望みを果たすことでアトリが救われるのだと夏生は考えたのでしょう。

その後、アトリが探していた最後の命令の記憶がよみがえりますが、しかし、もう絶対に達成することができない命令でした。
 夏生とアトリがそれぞれ持っている詩菜の記憶を合わせることで詩菜の最期の願いが明らかになり、今さら分かっても悲しいだけだと言うアトリに対して、悲しいのはそこに喜びがあった証拠だと夏生は言います。

あの日、喜びを教えて欲しいと言ったアトリは、本当はもうすでに喜びを知っていたのです。

今の夏生たちと過ごした日々の中で今の喜びを知り、また、過去の悲しみとともにあった過去の喜びに気付き、アトリは自分を救う方法にたどり着きます。
 ヒトに希望の光を灯すことで、みんなを喜ばせたい。みんなと喜びを分かち合いたい。

ヒトの役に立つために生み出されたヒューマノイドであるアトリは、ヒトの役に立つことを通して救われるのです。
 だから、エデンの管理人になった段階でこれは達成されたと見なすことができるように思います。

しかし、夏生はそんなアトリのことを「今度こそ救う」と言います。
 エデンの管理人になってヒトに希望の光を灯すことは、心を持つ存在であるアトリにとっての真の救いではないと夏生は考えているのです。

無数の輝く瞬間

1日早いお別れは、アトリの記憶が完全に消えてしまう前に、アトリがアトリでいるうちにお別れをするための猶予であると同時に、アトリが真に救われるための時間を未来に残すためのものだったのだと思います。
 心ある存在としてのアトリへの救いは、あのガケの上で交わした約束を果たした夏生と喜びを分かち合うことによってもたらされる、というのが最後の答えなのだと思います。

人に希望の光を灯して喜びを分かち合いたいというアトリの望みを支えるため、そして、真にアトリを救うために、人類の未来を絶やさないように地球を救う事を夏生は決意します。

物語の最後で夏生は地球を救ってアトリを迎えに行くという約束を果たし、そして、そこから先は2人で喜びを分かち合う時間を過ごすのでしょう。
 アトリと別れてからの今の夏生にも、心ある存在としてのアトリにも、ようやく本当の救いが訪れるのです。



以上、駄文でした。

この駄文はあくまで私の個人的な解釈であり、これが正しいなどと主張する意図は一切ありません。
 私はこう思っている or こう考えることもできると私は思っている、という性質のものです。

この駄文が少しでも作品解釈の助けになれたのならば嬉しい限りです。


関連ページ

記録1
記録2(ネタバレあり)(ここ)
記録3(アニメ版について)

2 件のコメント:

  1. 「駄文」に2つテーマを追加
    一部表現を変更

    返信削除
  2. 「駄文」に2つテーマを追加
    ・アトリに心が宿ったのはいつだったのか?
    ・死に目ですら水菜萌以外の家族がいない病室

    「アトリの性格について」に追記

    一部、項目の順番を入れ替え

    返信削除